一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし
三、
嗚呼(ああ)人栄え国亡ぶ
盲(めし)ひたる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ益良夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花
(以上、一部抜粋)
五・一五事件の首魁であった三上卓海軍中尉の作とされる『青年日本の歌』を、果たして「彼」が念頭に置いていたかどうかはわからない。しかし、いずれにせよ現代の日本は、この歌の歌詞が戦後のある時期以来、かつてないほどによく似合う時代に突入してしまった。
経済格差は拡大し、非正規雇用ばかりが増やされ、「子供の貧困」がアフリカの途上国の悲劇としてではなく、ほかならぬ我が国・日本の社会問題として広く認知されている昨今である。そんな日本社会の上層部である政界や経済界は、五輪から感染対策行政まで、国策に関わる多くの重要案件をパソナや電通とともに食い潰すことばかりやっていて、そこで上がる利益は国民の下層部にはまるで無関係である。少なくない数の国民の生活が荒廃していく一方で、政界は一部企業とつるんで利権を漁るばかりとなれば、国家・社会の一体性や国民の基本的な相互信頼などは失われてゆくばかりだし、そのような社会で「無敵の人」による無差別殺人やテロ事件が横行するのは、ある意味当然というほかあるまい。貧困・格差・分断・衰退は、現代日本の国家・社会を語る場面でよく用いられる単語であるが、まともにものも食えず、共有できる基盤があるとも感じられない者同士には、冷静な対話や議論は期待できない。そこで代わりに用いられるのは罵詈雑言や軽蔑の視線であり、最悪の場合には暴力である。
※
「民主主義を守れ」「言論には言論で訴えよ」などと、多くの者は判で押したように言う。しかし、果たして民主主義、言論の自由と言えば、それだけで暴力を否定することができるのだろうか。思うにこのような言説は、人間の人間性なるものをあまりに無邪気に信じすぎているのではないか。この言説の背景には、人間の論理性、言葉の力に対する信頼が前提としてあるのは明らかであるが、一般にこれらは人間と、他の動物とを最も大きく隔てる能力・資質として考えられている。弱肉強食の生物界では、肉食動物が草食動物を食らうのは当たり前のことであり、その肉食動物同士、草食動物同士も限られたエサ場や縄張り、生殖の相手を巡って熾烈な生存競争をしている。その中で、生き残りたければ群れを作ったり、またその中でボスに従ったりして、その群れの中でも、サル山のようにボスの座を巡る権力闘争が行われたりしている。当たり前の話だが、そこでも重要な要素となるのは、人間の言語のような記号によるコミュニケーションではなく、剥き出しの暴力であり、あるいはそれを増幅させる集団の力、数の力であったりする。
石器時代における人間同士の生存競争も、基本はそれと同じであろう。部族集団で生活を営み、他の部族とは生き残りをかけて争い、または集団の力が必要だとして、他のより大きな部族に服属したり、手を結んだりして、暴力の世界を渡り歩いていく。もちろん、互いに仲間だと認識した同じ部族の者同士では、言語によって意思疎通を図るが、そこにも意思の共有によって、他部族に対する戦闘の計画立案も含め、集団で生き残る力をより大きくしていくという重要な目的が含まれている。そこでは多くの現代人が考えるように、言語が暴力の代わりとなるのではなく、逆に言語が暴力の遂行を補助する道具となるのである。もちろん、ある状況下では暴力による争いは望ましい時ではないとして、言語などを用いた交渉が人間同士の問題解決の手段となる場面もあったであろうが、そうした場面だけを抜き出して、言語の本質的な役割であると考えるのは、あまりにも重大な片手落ちではないだろうか。
そんな石器時代を経て、農業に支えられた大規模定住社会が定着し、次いで工業を背景とした近代産業社会が確立し、さらに経済社会が進展しても、人間同士の暴力による争いは耐えることがなかった。つまり、暴力の代わりとして言語を用いた交渉と同時に、言語による意思共有に支えられた暴力の遂行も、一貫して続いてきたのである。しかもその間、人間集団の社会そのものも、数の力に支えられた巨大な集団の暴力によって維持され、発展してきた。国家とは巨大な暴力の独占装置だとしたマックス・ウェーバーの言葉を引用するまでもない。その「国家」を背景とした議会制度や民主主義、言論の自由の思想とは、より正確に述べるならば、その国家による暴力の独占を暗黙の背景としながらも、それ以外の暴力を一切禁じ、その国家暴力の適切な管理・運用に関しても、言語による交渉や合意形成を唯一の手段として、決定していくべきだという考え方だと言い直すことができる(その国家の暴力性そのものも前提として認めない極端な人士に関しては、私は相手にするつもりはない)。
つまり、国家による暴力の独占を除けば、それを背景としたあらゆる社会問題や経済問題、紛争は言葉の力によって解決していくべきだという考え方が、現代社会の重要な柱となっているようだが、果たしてその言葉の力とはどこまで有効なものなのだろうか。ここで、私が先述したことに戻りたいのだが、そもそも「言葉」による議論、対話とは、互いに共有するものを見出すことで初めて成立するものだ。道案内一つとっても、道を聞かれた側が、その目的地があることを知識として知らなければその目的を達成できないし、商売の取引も、互いの力を借りることで利益を上げるという目的を共有することで、はじめて成立する。政治・経済・社会に関わる重要な問題に関しても、自分たちが暮らす日本の国家・社会を維持し、発展させること、多くの人間がより生きやすい、住みよい社会にすることといった目的や前提の共有がなければ、それに関する議論を始めることすらできないであろう。
※
そこで、改めて問いたい。暴力ではなく言葉を用いて、社会に自分や他者の問題や思想を訴える試みは、この現代日本社会であれば、いつでもどこでも誰にでも、どのような場面や状況においても有効なのだろうか。それは甚だ疑問である。基本的にはいつでも弱肉強食の生物世界から、その救いのない惨状から逃れるために、人間は社会を形成し発展させてきた。この弱肉強食という残酷な自然状態(ルソーの自然観は端的に言って妄想だと思う)から弱者を救い、また弱者自身が自らの問題を社会に訴えるための手段として、「言葉」の力が期待される向きもあるのであろうが、要するに弱者が自ら救われるためには、自らの問題を言語化して訴える能力、その問題を乗り越えるために他者を巻き込む力、また言葉による訴えを可能にする場面や、機会に恵まれていなければならないということになる。この社会で一番の強者から、最底辺の弱者に至るまでには無数の段階があるのであろうが(極端な話、日本の総人口と同じだけの「段階」が)、その中で、「弱者として」言葉を通じて自らの問題を訴えられるような人間は、相当な上澄み層であるといえよう。最底辺の弱者は言葉を持たない、とは他の人もすでに指摘していることだ。
さて、こうしたことが今回の山上徹也「容疑者」による安倍晋三元首相暗殺事件の場合と関連して、どう考えられるであろうか。山上被疑者は母が旧・統一教会なるカルト宗教にのめり込み、一家が破産したことから「統一教会」に恨みを持ち、安倍元首相が同団体と深いつながりがあると考えて彼を狙ったと報じられているが、果たして彼に、今回の行為以上に、言論を通じて「統一教会」の問題をより有効に政治や社会に訴える道があったのだろうか。
恐らく答えは否である。巷で見聞する通り、同団体が、冷戦時代の反共思想を通じた保守政界とのつながりを引きずったまま、言うまでもなく現代の日本政界の中核である自民党と浸透し合っているのであれば、その問題が、今回の事件なしにマスメディアを通じて大きく報じられることは考えにくいし、記者クラブなる制度に盲従しているメディア界が、一男性の訴えだけで、政治権力の深部に切り込むこの問題を取り上げるとは思えない。要するに、山上被疑者は、多くの者が言うようにその乏しい言論の力を用いるよりも、やはり暗殺事件を引き起こすことで、より有効に、見事にその目的を達成したのだ。まことに「言論の力」とは偉大なモンだ。そんな現状すらも直視できない、ただお利巧なだけのインテリが言論界の主流派として大きな顔をしている現代社会に対して、果たして彼に語る言葉があったのだろうか。
※
さて、言葉による対話、議論には互いに共有するものがあって初めて成り立つと先に述べたが、その多くの人々が共有できるものが、果たして現代日本にはどれだけ残っているだろうか。例えば、拙文では「弱肉強食」なる言葉を用いたが、この弱者の問題を考え、議論するためにも、まず前提として「弱者は社会によって守られ、救われるべきだ」という倫理観を多くの者が共有していなければならないのだ。果たして、その倫理観は今の日本社会ではどこまで確信を持って、自明のものだと言えるだろうか。要するに、弱者救済がこの社会で最上層部の者まで含めて、果たすべき目標であるという合意がなされていなければ、「上」と下層部の者に共有できるものは初めから存在せず、議論できる前提が存在しない。すなわちそれは、国民国家としての「日本」という社会単位の崩壊であり、全国民的に共有できる「日本」という国家の物語は、ついに終焉を迎えることになる。日本の歴史が終わるのである。あるいはすでに終わり、滅び去ってしまったのかもしれない。そうだとしたら、後はかつて存在した日本国家の廃墟が時とともに腐蝕し、朽ち果ててゆくのを待つばかりである。「日本」を維持し、発展させるための議論の基盤など、もはや存在しないということになる。
少なくとも、少子高齢化の進行と地方の消滅、東京だけがブラックホールのように日本の国土を吸い潰していくという誰が見ても明らかな国家の衰退の現状を見れば、国民が「分断」などしている場合ではないとわかるはずだが、どうやら「わかっている人」の多くは、それに対して自分が何かしらの働きかけをしようとは思わないようだ。大体、そんな日本の社会の現状や将来が「わかっている」だけのリテラシーのある人は、自分個人やその家族だけなら、その知識や能力を生かして、海外で働いたり、投資したりして「逃げ切る」手を打つことも考えられるであろう。そして、周囲の人間の楽観論や悲観論の双方に程々に付き合いながらも(または関わり合いすらも控えめにしながら)、自分たちだけは助かるような手筈を整え、あるいは整えようとしている。
かくして、知性や能力のある人間ほど、衰退が明らかな日本の国家・社会を見捨てて逃げていき、そんな日本の国家・社会を担うような人間はますます消え去ってゆく。それにつれて日本国家そのものも、加速度的に崩壊していく。まるで関ヶ原の戦いで、相次ぐ自陣営の寝返りに遭って崩壊していった西軍・豊臣方の軍勢のように。
もっとも日本だけでなく、世界各国においても、こうしたいつでもどこの国でも働けるし、お金を自由に動かせる「エニウェア族」と、どこか特定国の、あるいは一地域に根を張って生きるしかない「サムウェア族」との分断が進んでいることはすでに指摘されている。経済格差の問題を見れば、米国や韓国の方が日本より酷いとか、欧州では移民政策によって社会の分断と崩壊がより深刻になっているとか、新自由主義やグローバリズムの弊害が多くの国で明らかになっているとも言われる。だから、「西側」先進国の社会は軒並みオワコン状態に陥っている、と見ることもできるであろうが、わけても日本の場合は少子高齢化、地方消滅の問題が深刻である(他の多くの国も、同様にその問題に直面するであろうが)。だから日本「だけが」世界で最も深刻なオワコン状態にある、と断言するのも考え物だが、一方で他の先進国よりも日本が特に酷い部分もある、という指摘もそれはそれで重要であろう。そのようなことを前提としつつ、引き続き日本の問題について考えていきたい。